『交通インフラに反抗する清純派な草枕たちの雑録』【1-3、旅行論PART3】(ゴクツブシ米太郎)

●前回は、中世・近代において、人びとが「旅」/「旅行」に自由の表現を見出してきた、というふうなことを書きました。今回はそれに引き続いて、じゃあその「旅」/「旅行」の自由って何? ということについて書きます。「旅行論」完結編です。

 

 PART2の最後に書いた商品化された「旅=travel」の議論ですが、正直なところそんなものはさして意味のないものだと思っています。よく「旅」と「旅行」の違いとは? という議論を耳にしますが、どうしたって感性的なレベルでの水掛け論に終始しがちです。

 そういった議論で用いられる「旅」と「旅行」の定義とは、おおかた次のようなものでしょう。旅は、時に奇抜な交通手段を用いながら、自分の意志のままに、比較的長期間、多くの土地を渡り歩くこと。多くの場合一人または限られた少人数で行われ、規模によっては「放浪」などと言い換えてもいい性格のものです。

 それに対して「旅行」は、頭に「観光」や「慰安」などの文字を頭に足すことができることからも分かるように、何らかの形で規格化されたものである。また、娯楽が何よりも優先され、目的地や目当てのものがはっきりしており、さらに安全性が前提されたものである。人数は一人のときもあれば、団体ともなればかなり膨れ上がることになる。

 けれども、このような分別はあまり意味のないものです。個人的な感性に基づいて決められた線引きが万人に通用するわけではないし、それに、次のようなケースははっきりと「旅」と言いきることができるでしょうか。

 たとえば、ある日本人の若者が一人でアメリカ中西部の広大な砂漠を、ジープを運転して横断した。その後、彼はNYを訪れ、現地の酒場で意気投合したバリバリのニューヨーカー数名に案内され、市内各地の名所を見て回った。数日後、彼は貯まっていたマイレージを利用して、JALのファーストクラスに乗って帰国した。

 個人の感性に問うてみるまでもなく、先に確認した「旅=travel」の歴史に照らしてみれば、純粋な意味での「旅」は現代社会においてそう簡単には存在しないのであって、実態は「旅」の要素と「旅行」や「観光」の要素とが混淆したものでしかないと思われます。

 大切なのは、PART2の最後に書いた、「旅行」における真の自由です。確かに中世以降、移動の自由は徐々に拡大されてきました。

ところが、現代人はインターネットの情報サイトや、旅行雑誌に記載された情報というくびきに囚われてしまいがちであるのもまた事実です。その結果、事前に調べた目的地や観光スポットを見て回り、お土産を購入して帰路に着く、という「旅行」のスタイルが板に付いてしまっている。

 「旅行」よりも「旅」が好きなどと言う人はきっと、そのパッケージングが気に入らないのではないでしょうか。おそらく、彼らはこうも主張するだろう。もっと強固な自分の意志を持ち、目的を探すべきだと。それは正しい。しかし、私にはパッケージングが悪いとも思われません。それが「旅行」の行程や目的のおおまかな指標になることは間違いないし、仕事や学業で多忙な人にとって、一つの媒体に情報が凝縮されていると余計な調査の手間が省けるから大助かりです。

 繰言になりますが、「旅」と「旅行」の区別が重要なのではありません。自分の意志がすべてを変えるという考え方が重要なのです。日常生活に対して、「旅行」は非日常の時間的・空間的体験だと言えます。インターネットのサイトや旅行雑誌に記載されているのは、非日常的空間の、非日常的な対象なのです。それを楽しむことをやめる必要はありません。しかし、「旅行」が、情報サイトや旅行雑誌の追体験になってしまうようでは芸がない。PART1の冒頭で挙げた『チャタレイ夫人の恋人』の引用箇所には、そういった含意もありましょう。

 あの文言のそしりを免れるには、発想の転換が必要です。非日常的時間・空間で、日常的時間・空間を発見し、観察するという意識。これが必要だ。真新しい、刺激的な対象ばかりを追い求めるのではなく、公園に植わっている木とか、古本屋に並んだ書物とか、駅前の飲食チェーン店とか、何でもいい、あえてどこにでもあるようなものに眼を配ってみる。そうすると、「旅」/「旅行」のあり方や世界の見え方が少しずつ変わってくるにちがいありません。私も、市販の旅行雑誌に記載されていない情報だけで、自分オリジナルの旅行雑誌が作れるくらいに自由な「旅」/「旅行」を楽しめたら、と思っています。

 

(おわり)

『交通インフラに反抗する清純派な草枕たちの雑録』【1-2、旅行論PART2】(ゴクツブシ米太郎)

●「旅」、「旅行」という言葉の語源と、古代における「旅」のイメージを追った前回に引き続きまして、今回は中世・近代の「旅」のイメージを膨らませていきます。

 

 中世に至ってようやく人は旅する自由を手に入れます。『旅の思想史』によると、中世ヨーロッパの騎士たちは誰にも強制されず、自発的に旅をする「遊動性(モビリティ)」を手に入れたのです。また、中世に栄えたボローニャ大学などの学生たちは、ヨーロッパ各地を行脚して、専門的な知識を持った教授たちを探して回ったそうです(『大学の歴史』クリストフ・シャルル、ジャック・ヴェルジェ共著、白水社)。

 そして、近代になると水陸両面で交通インフラが発達し、「旅行=tour」が一般的に浸透するようになっていきます。近代以前は、旅人を送り出し、家で帰りを待つという役割に留まっていた女性も旅行の自由を得ました。

 いくつか文学作品を見てみますと、例えば、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』では、積極的に愛を求める旅行に繰り出す若い女性と、それに当惑する男が描かれています。前回の記事の冒頭でも挙げた『チャタレイ夫人の恋人』では、戦争で負った怪我がもとで性的不能になった夫が、妻が子供を妊娠することを期待して、旅行と情事を勧める場面が描かれています。

 自由というのはいいものです。ジャン=ジャック・ルソーも『孤独な散歩者の夢想』で語っています。「自由とは、何でもかんでもやることができるという意味ではない。やりたくないことをやらない自由が真の自由である」と。

 『旅の思想史』でエリック・リードは、「現代人にとって『旅』とは、自由の表現であり、必然性と目的からの逃避である。また、新しく珍しいものを発見し、それに接近することでもある」と述べられています。

 この定義に関して異議を唱える余地はないように思われるし、ここで私が、上記のような現代人の欲望を満たすために「旅=travel」は「観光=sightseeing」と緊密に結びつきながら、商品化(パッケージ化)され、消費者に提供されてきた、と付け加えたとしても、概ねの同意を得られるのではないかとも思います。

 

(1-3につづく)

ゴクツブシ米太郎といがもっちの懐かしの座談会 パート2

ニーチェ

ゴクツブシ:ニーチェ※1読んでるの?

いがもっち:ニーチェはちょっとかじっただけ笑 そんなに読んでない笑 ニーチェもたくさん本出しとるけど、とりあえず『善悪の彼岸』は完全に読んでみたいねぇ。……そう言えば、ツァラ……あれ、なんだっけ?

 

ゴクツブシ:ああ。『ツァラトゥストラはかく語りき』?

いがもっち:そうそう。そのツァラトゥストラってさ……あの……古代の「万物の根源は土・火・水・風」って言った人誰かいね?

ゴクツブシ:ええーっと……ああ、思い出したいけど思い出せないな

いがもっち:ああーっと……ああ、エンペドクレスだ。それがモデルになっているらしいよ

ゴクツブシ:へー。ピタゴラスしか覚えてなかった(笑)

 

※1 フリードリヒ・ニーチェ。ドイツの哲学者。ニヒリズムの生みの親。『善悪の彼岸』では、僕の好きな言葉「人は結局のところ対象そのものを愛しているのではなく自分の欲望を愛しているのである」が掲載されている。

 

プロフェッショナルorオールマイティ??

ゴクツブシ:最近、文学ばっかりじゃなく他にも視野を広げないといけないって思うようになってきたわ。社会学とかメディア論とか。

いがもっち:うん。そうよね……それはもうなんか文学にかかわることというか……最近よく言われていることが、「最近の大学は専門にはしり過ぎている。そろそろ体系的に研究しないといけない」。やっぱり一分野だけでなく、他分野にまたがる研究をした方がいいよね。

ゴクツブシ:アメリカのエリートとかって、自分の専攻の他に副専攻も作るっていう。あれ聞いた時ショックだったわ。俺は今平和学とか副専攻として取ろうと頑張っているんだよね

いがもっち:ああ。ところで平和学って何をするの?(笑)

ゴクツブシ:一応……平和とは一体何なのかという概念とか定義とかを学んで、それだけだと机上の空論に過ぎないから、ケーススタディをする。

いがもっち:うんうん。

ゴクツブシ:やっぱり一概に平和って語れないじゃん? こうすることが平和だとか、こうすれば戦争は止められるとか一概には絶対語れないと思う。アルジェリアにはアルジェリアのケースがあるんだろうしシリアにはシリアのケースがあるんだろうし。

いがもっち:そうそうそう。

ゴクツブシ:絶対手を変え品を変え、別のアプローチでやっていかないとだめだと思う。そういう面ではそれぞれに専門化したというか特化した人がいてもいいと思う。

いがもっち:そうねえ。まあでもそう考えると確かに専門的に研究する人も必要だよね。

ゴクツブシ:まあねえ。現地とかねぇ。

いがもっち:突きつめる人がねぇ。

ゴクツブシ:そうそうそう。

いがもっち:それを誰かが体系的にすればいいと思うんだけど。

ゴクツブシ:役割分担か……平和活動の構造って、専門家━━特化してケーススタディに当たっている人とそれらを体系的にまとめあげる人達っていう、確かにちゃんと二分化されてはいるんだけど、結局その専門的な研究をした人達の方がどうしても劣位に立たされているんだよね。それはなぜかというと、体系的にまとめあげている人たちが国連の人とかIMFの人達で、そういう人達って結局上から「俺たちがこういうプランを作ったのでそちらの現地でこうこうこういう風にやってください」っていう風に現地の人達にプランだけ与えてやらせるって感じなんだよね。で、成功したらそれは搾取するし失敗したら失敗したで投げやりにしちゃって尻拭いはその現地の人達にやらせるっていう。完全な協力体制っていう形に全然なってないんだよね。

いがもっち:そうなんだ。

ゴクツブシ:らしいよ。俺も行ったことないから詳しくは知らないけど。

いがもっち:いやあ、でもやっぱり、結局はおいしいとことった方が脚光浴びることになるからねぇ。

 

『交通インフラに反抗する清純派な草枕たちの雑録』【1-1、旅行論】(ゴクツブシ米太郎)

こんにちは。ゴクツブシ米太郎です。一時の悪ノリで左のようなよくわからないペンネームをつけてしまったけれど、どうせなら「観音寺」とか「榊原」のような憧れのかっこいい苗字をつければよかった。観音寺米太郎。そこはかとなく漂う小坊主臭が素敵。

 

【1-1、旅行論~エリック・リード著『旅の思想史』をもとに~①】

 ――楽しみを手に入れようと躍起になった旅行者ほど惨めなものはない――

 これは、イギリスの小説家D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』(1928年初刊。伊藤礼訳、学習研究社)の終盤に出てくる文言です。いったいなぜ、旅行者の娯楽の追求を戒めるなどというお節介を、この作者はするのでしょう?

 議論に突入する前に、「旅」と「旅行」の意味がどう違うのか、というポイントを押さえておきたいと思います。これに関しては、人それぞれの感性的な意見は枚挙に暇がないと思いますが、まずは、言語学的なアプローチから。

『観光旅行用語辞典』(北川宗忠著、ミネルヴァ書房)をめくってみると、「旅=travel」、「旅行=tour」というふうに弁別されております。

 お次に、辞書界では屈指の世界的権威の持ち主Oxford English Dictionaryを調べると、“travel”の語源はラテン語の“trepaliare”だそうな。大意は“an instrument or engine of torture”(ひどい苦痛の手段、あるいは動力)。また、中世英語の“travail”は“suffering or painful effort, trouble”(苦しいこと、あるいは痛みを伴う努力や困難)という意味です。

 一方、“tour”の語源はラテン語の“tornus”、意味は“a tool for describing a circle”(円を描くための道具)であり、“tour”の三つ目の意味では“A going or travelling round from place to place, a round; an excursion or journey including the visiting of a number of places in a circuit or sequence”(下線は引用者)とのこと。

すなわち、「旅行=tour」という言葉には「旅=travel」につきまとう「苦痛、困難」のイメージは希薄で、「行って戻る」ことが保証されている、円環的な移動のイメージが浮かんできます。

 言葉調べが長くなってしまいましたが、ここから「旅=travel」の歴史を簡単に紐解いてみましょう。『旅の思想史』(エリック・リード著、法政大学出版局)によれば、古代の文学『ギルガメシュ叙事詩』『オデュッセイア』で描かれる旅はまさに苦難の物語であり、それは神話的側面から語れば、神々が定めた宿命であり、必然的な試練であるとも言える。しかし、その苦難を乗り越えることによって、旅人はより優れた人物として成長することができる。言い方を変えれば旅の難易度が、旅人の経験地の尺度になっている、というわけです。

 ここで重要なのは、古代人にとって旅は強制される出来事であって、決して個人の自由の範疇ではなかったということです。これは日本の場合も似ています。万葉集に詠まれた旅に関する歌を詳しく分析した『萬葉集の覉旅と文芸』(三田誠司著、塙書房)では、旅に関する歌をA.旅先への関心、B.旅にある自己への関心、C.家・妻への関心の三つに分類しています。この分類に歌の詠み手のパースペクティブを付け足すならば、こんな感じでしょうか。

A.旅先への関心

⇒自宅や宮中を起点として、これから始まる旅を夢想している。

C.家・妻への関心

⇒旅先を起点として、残してきた家や身内を振り返っている。

B.旅にある自己への関心

⇒AとCに見られた二つの起点の狭間で揺れ動く心境、または、旅の経験によって自分の意識や感性、ものの見方が更新されていく様子を詠っている。

繰り返しになりますが、「旅行=tour」的な「行って」「戻る」ことができる保証は、古代の旅には縁のないものでした。古代の旅は、「旅行=tour」が持つ円環的なイメージよりも、上で見た二つの起点から成る単線的な、直線的なイメージのほうが圧倒的に強いのです。

 

(1-2につづく)

『交通インフラに反抗する清純派な草枕たちの雑録』【0、はじめに】(ゴクツブシ米太郎)

【挨拶】こんにちは。ゴクツブシ米太郎です。この記事は、今後の連載に関するお知らせです。それ以上でもそれ以下でもなく、そういう意味ではホンマにジャスタウェイみたいな存在感を放つということがこの記事の特徴なのだといえるでしょう。

 

【お断り】突然ですが、小説『春のバラバ』は、構想が大きく変わったため、連載を中止します。今後は見切り発車で連載を始めないように心がけ、安定的にブログの更新を行いたいと思います。申し訳ございません。

 

【ほんで、早速なんじゃけども】新しい連載小説のネタは今のところないので、しばらく「旅」をテーマに記事を更新していきます。内容は旅行記や論文っぽいやつ、旅を扱った小説や映画の紹介など多岐に渡る予定です。また、過去に書き溜めたものもあれば、新規に書くものもあります。とにかく、この機会に「旅」関連で書いたものを整理してみようと思います。

 

【目次(たぶん、こんな感じ)】

0、はじめに

1、旅行論~エリック・リード著『旅の思想史』をもとに~

2、広島の風景に関するエッセイ

3、「断絶」の表象①~竹西寛子が見た広島の風景~

4、「断絶」の表象②~テオ・アンゲロプロスの映画~

5、ユニークな徒歩者の眼差し~多和田葉子の小説~

(6、鎌倉旅行記)

 

書きながら我ながら仰々しいな、と思いつつ、はじめにつけちゃったタイトルがアレだしまぁいいかと投げやりつつ、明日から更新を始めます。またねー