第7話 入学式とその夜
Story So far
●御宿深丸とかいう主人公が、青葉志成バーチャル学園への入学を目前に控えている。彼は中学卒業後から高校入学までの儚いモラトリアムを悠々自適に過ごしながら、自分の代わりに学園に「通う」アバターの作成に成功した。
●花原葉月とかいうバーチャルチューターが、御宿深丸のアバターをエロガキ扱いしつつも、彼に対する入学者用イントロダクションを無事に済ませた。
●橋爪楓里とかいう教員が今春より、青葉志成大学付属高校から青葉志成バーチャル学園に出向してきた。
●藤枝道慈とかいう教員は御宿深丸の担任である。
●幼稚園児の御宿幸太郎は御宿深丸の弟であり、高校三年生の御宿十和莉は御宿深丸の姉である。
●その他、数名の教員と学生たちが、御宿深丸のアバターに接触した。
●アバターとは、アバター作成者自身のようであって決してそうではないこと、そして、そこが面白いのだということが、藤枝道慈とかいう教員の口から語られた。
●御宿深丸とかいう主人公は、アバターは「自分ではない誰か」であることを重々承知しながらも、「自分だと思える誰か」であってほしいとの思いでアバターを作成した。
…そしていよいよ、青葉志成バーチャル学園第二期生の入学式の日がやってきた!
Entrance Ceremony
●校長先生からの挨拶! 激励! むせかえるくどい情熱が言葉の節々からほとばしり、皆一様に気圧され・うなだれ・胸中コール「早よ終われ」、一人で侃々諤々やりやがるせいで立つ学生らの膝もガクガク震え寒いぞこれは、ゴミクソオヤジギャグも脳内飛び交う興ざめアワー、そこへマイク持て来たる期待のフラワー学級いいんちょ!
●学級いいんちょ!「新入生の皆さん、入学おめでとうございます。ご存知の通り、この学校は色々と普通ではございません。今日一堂に会した皆さんは悉く生身の人間じゃないんですから、それはもう尋常ならざる事態です。もう一つ普通でないのは、この学校にはまだ校歌なるものがないのです。ないなら自分たちで作ろう、そう言って昨年、一期生みんなで知恵を絞り、意見を戦わせ、この学校にふさわしい立派な校歌を作ろうと試みました。作ったところで歌う機会なんて、とは思ったんですけど、それでもみんなどういうわけだか熱心に作っていたんです。そうしたら、これもどういうわけだか、一人が急に言い出したんです。『なんか、こんなの空しいよ』って。私たちは最初、彼のことを相手にしませんでした。でも、三、四日経ってくると、その虚無感がすっかりみんなに伝染してしまったんです。私たちは次第に校歌のことを口にしなくなりました。校歌の草案を綴ったノートやデータはもうどこにも残っていません。……あの現象はいったいなんだったんでしょうか。今でもよく分かりません。ぼんやりとした始まりと終わりのあいだに、ものすごく濃密な熱が、光が、ぎゅっと綴じられていたんです。あなたたちもこの先、もしかしたらそんな経験をするかもしれませんね」
●fromゴミクソベンチャー企業社長ふう校長toひたすらモヤモヤする学級いいんちょ!、お前ら実家に帰れ速やかに、大人しく、厳かに今日は入学式つまり若人たちが新たな一歩を踏み出す日だった! お前たちは絵画でいうところの額縁、絵画が絵画であるための担保、なのになぜ額縁が絵画より激しく主張する必要があったのか? 濃密に渦を巻く熱気は何かの予兆まるで雷雨を予告する暗雲のよう、人ひとりKILLで散る命、私怨か利害かはたまた組織ぐるみの犯行かはたまたはたまたはたまた……。
Conversation
「あっ元気だったー? 私のフェイスブック記念すべき二〇〇〇人目のお友達?」
「あー……。えっと、確かあんた、山福千佳だっけ。つーか、その呼び方やめてくんない。俺、御宿深丸。よく変って言われるけど、いちおう名前あるから」
「ごめんごめん。また会えたのがうれしくて、つい。ってか、うちらクラス同じじゃん? やったね! これからよろしく!」
「ああ、うん」
「ねぇ、入学式も終わったことだし、これから国際コミュニケーション部の体験入部行くんだけど、御宿くんも来ない?」
「俺はいいかなー。なんつーか、すごく苦手そうな匂いがプンプンするんで……」
「そっかそっか。御宿くんは趣味とかあるの? あるんだったら、そーゆー部活探して一緒に行こうよ!」
「趣味もやりたい部活も特にないからバーチャルハイスクール選んだ俺に、それ聞く?」
Conversation
「そっかー。でも、趣味がないならこれから作ればいいじゃん?」
「つってもねー」
「あ! 城田くん発見! おいーっす! 城田くんもこれから体験入部?」
「ういーっす。んま、そんなとこ。クラスのオリエンテーションとか、授業とかは明日からだからさ、今日やれることをやっておこうと思って」
「さーっすが、抜け目ない発想に抜け目ないコメント。頭が下がります」
「いやいや、別に大したことじゃないよ。この学校の校風が、学生同士のコミュニケーションを尊重するってのもあって、今日はいろんなところで先輩たちが部活や学校生活のレクチャーをやってるみたいだし。僕は何個かアテがあるから、順繰りに顔を出してみるつもりさ」
Conversation
「もし邪魔じゃなかったら、私も城田くんについて行っていいかな? 噂だけど、例の『アクティブポイント』、たまりやすい部活とか選択授業とかあるみたいだから、早めに情報集めときたいんだよねー」
「任意受講の専門キャリアコースは、時間割を圧迫するけど取っといたほうがいいらしいよ。少なくとも半年は。アクティブポイント貯まりやすいって」
「ふーん。なんか、高校っていうより大学みたいだよね、時間割とかけっこう自由に組めて」
「んま、そこがイイつって入学する人も多いんじゃない?」
Conversation
「なんか、あれだな。みんなちゃんとしてんだな。ちゃんと考えて、ちゃんと選択して、ちゃんとやりたいこととかあって、それでこの学校に来てんだな。俺は入学式終わったら直帰――というか直ログアウト――略して直アウト? する予定だったからさー。昨日買ったばっかの漫画、読みかけだからさ」
「……」
「もう帰ってもいいかな。山福や城田と違って、俺は今日ここでやることは特にないし」
「……」
「入学式の日って、そんなもんっしょ。サクッと帰るのがセオリーでしょ」
「……」
「んじゃ、また」
「……」
スルリ抜けて直アウト決めこみ本棚をぼんやりとまさぐる手、あっまるで自分のものではない気がしたのも束の間、漫画の続きを読む意欲もなく覚束なく宙をたどる手、指先に力はなく所在なく待つだけ、手より足が先に出、手はポケットに入れる。意味もなく他愛無く影の長さを確認しながら決めうちの道のりを歩く、三〇分の道程を倍の時間かけてとろとろ歩き、疲れ、刈られ横たわる植え込みの緑の香りが鼻をふさぐ。
やがて緑はトラックに運び去られ、残り香はまだ固く冷たい夜の空気にかき消され、夜は明け朝ぼらけ昼を経てだんだん肌になじんでくる春の夜の気温に、まっすぐ進んでいく時間に、「俺はこのままでいいんだろうか?」と自問自答する深丸の胸中やいかに。
その晩、深丸が弟の幸太郎を風呂に入れ、寝る支度をさせていると、姉の十和莉が塾から帰ってきた。十和莉はリビングのソファに身を投げるや否や、ため息交じりにぼやいた。
「はーしんど。はー意味わかんね」
「何?」
「ううん、こっちの話。いちいち反応しなくていいから」
「うっす」
幸太郎がリズミカルな寝息を立てはじめたのを見て、深丸は、急に心地よい疲労と眠気がのしかかってくるのを感じた。
「深丸、初のバーチャル学園はどうだったの、初のバーチャル学園は」
姉の問いに、深丸は首をぐるん、と回しながら適当に答えた。
「んー、まだよくわかんね」
「何よそれ、少なくとも私や幸太郎よりはあんたのほうがわかるでしょうよ。なんか答えなさいよ」
「よくわかんねーもんはよくわかんねー」
「ふぅん」
十和莉は気の抜けた表情で欠伸をかましながら、深丸を横目で見やった。
「まぁ、最初っからあんまり無理するんじゃないよ」
深丸はようやく首を回すのを止め、十和莉の視線を正面から受け止めた。
「んだよ、その言い方。ババアかよ。ババアかよっつーかババアだよ」
「は? その口マジもぐよ、マジで」
「うわババアだよー。ババアがなんか言ってるよー」
「ほんと憎たらしいガキ」
深丸はふらっと立ち上がると、自室にひっこんだ。眠気にひきずられるようにして、あっという間にベッドに倒れこんだ。
十和莉は食事の準備をはじめた。ご飯を茶碗によそい、出来合いの八宝菜を温め直すと、食卓にきちんと並べられた箸を手に取り、無心でおなかを満たしはじめた。
(第7話おわり)
第6話 懐疑
雑賀文太はどうしようもないほど憂鬱であった。
「はぁ〜〜」
教員室のディスクに肩肘をついて手を頰につけ、落ち込んだ様子でため息をついていた。
「ったく、本当に憂鬱だわ〜。地平線に浮かんだ太陽と土手道を歩く牛とのその使い手が思い浮かぶくらい憂鬱だわ〜」
「あれ? 雑賀先生どうされたんですか?」
雑賀に声をかけたのは、ポニーテールの金髪の女性であった。
もみあげの横の髪は顎の下まで届く長さでその先はカールしている。
口紅で赤く染められた口はペンギンのように尖った印象を受ける。
「うーん、五十嵐主任。憂鬱なんですよ。とても」
「何かあられたんですか?」
「それがね。私はいつも穏やかに生きてきたんですよ。波風を立てずにね。今回転勤してきたこのバーチャル学園だって、アバターで学園生活を過ごせるってんで、ああ、ハートフルだ、って手を上げてきたんですよ」
「あら、いいじゃありませんか」
「いや、それがですね、実際に赴任してきたら想像と違うわけですよ。生徒たちはSNS業界のカリスマだったり、傭兵制の異国からどういうわけか送り込まれてきた子だったり、大手財閥のドラ息子だったり。一癖も二癖もあって正直私なんかの手に負えない」
「そうですか? けど、雑賀先生はいつもうまくやってらっしゃるように見えますわ。生徒と話しているところを見ても、いかにも落ち着いた様子で笑みを浮かべながら喋っているように見えますわ」
「そうですか。それはよかったです。でも内心穏やかじゃないんですよ。いつも『急にこの子にナイフで刺されたりしないかな?』なんて思って過ごしてますよ。まぁ、所詮アバターなんでナイフで刺されたところで痛くも痒くもないんですが」
「そうだったんですわね。雑賀先生にも雑念がございましたとわ。着丈そうに振舞いながらもその実、心境は大変なのですね」
「ええ、その点、私からは主任の方がゆとりあるお心持ちの印象をお受けします」
五十嵐織音は髪をさらりとかき分け答える。
「あら、私とてお悩みがないわけではないですよ」
「ほう、主任のお悩みと言いますと興味がございますな」
そこで五十嵐は広角をあげ、口を開く。
「よんれいに」
雑賀はピクリと眉をひそめた。
五十嵐はえくぼのついた笑顔で話を続ける。
「特務実例四〇二。このバーチャル制の学校に対し、国のとある機関から命ぜられた執行特務。主任として理事長、校長に納得のいく説明責任を私は負っています」
「よんれいに……前々からちょくちょく耳にする言葉ですが、一体なんなんですか? その”特務実例”とやらは?」
八の字の眉を浮かべ雑賀は五十嵐に尋ねる。
「それは私の口からお話しすることはできませんわ。一主任の権限で公表することなぞできません発令ですので。しかし、そうですわね。強いて言うなら、全てはシュミレーションです。ビッグデータを駆使したシュミレーションをこの学校で行なっているということだけは伝えても良いかも知れません」
「シュミレーション……」
数秒の沈黙が続いた後、雑賀は口を開いた。
「いや、これ以上深く突っ込むことはやめましょう。それこそハートフルな人生を歩めなくなるような気がいたします。私なんぞ一介の先生に過ぎないと分をわきませていますので」
「ご理解いただきありがとうございますわ。雑賀先生ももっと周りをご活用いたしてくださいね。たまには息抜きをしないと身が持ちませんわ」
「主任のお気遣い大変恐れ入ります」
「いえっ、では私はこれで……」
そう言って五十嵐が身を翻した時だった。
はらりと一枚の紙が落ちる。
「あっ、主任……」
雑賀が紙を拾い上げて五十嵐に渡す。
「あらっ、すいません。ありがとうございます」
五十嵐が頭を下げる。
「いえっ……」
雑賀は五十嵐の背を見送る。
一人になって彼は呟く。
「あれ、一体なんだったんだ? 極秘生徒事項って……」
第5話 予感
藤枝道慈。深丸の担任のアバターは、平々凡々な三〇代前半男性そのものといった容姿だった。彼は瀬戸晴信に近づいた。
「瀬戸くん。急式先生が呼んでるよ。一緒に行こうか」
「その必要はない」
ピリッと張り詰めた声が聞こえたかと思うと、藤枝の背後から長身で細面の男が姿を現した。そして、聞こえよがしにため息を漏らした。
「これ以上、私を失望させないでくれ、瀬戸。いつになったら真面目に『課題』に取り組むつもりだ?」
瀬戸は逃げるのを諦めたらしく、けだるそうにポケットに手を突っ込むと、椅子に腰を下ろして脚を組んだ。
「その質問に対する答えは、もうとっくに取り組んでる、だ。ちゃんと通常のペースで、通常のやり方で、ね。それで成果が上がっていないということは、今回の『課題』が、俺のやり方が通用しないほどチャレンジングだってことさ」
「昨日までのやり方が、今日も通用するほど甘くはない。そんな教訓を高校生時代から身をもって知ることのありがたさを、君は噛み締めるべきかもしれないな」
「いい先生ですよ、急式先生、あなたって人は。啓蒙的? っていうのかな? けれど、本当にいい先生ってのは困ってる生徒に正しい選択肢を示し、その先のゴールに向かって背中を押してやれる人だと思うんですが」
「ならば、そうだね、君も自分がいい生徒であることをもう少し上手く表現するべきだね。教師も人の子だからね、いい子には褒美をやりたくなるというのが親心ってもんだよ」
急式と瀬戸は少しの間、お互いを探るように見つめ合った。が、すぐに瀬戸が口を開いた。
「わかりましたよ。俺たち、なんというか、もっと上手に協力し合って成果を出せると思うんだ。嫌味な挨拶から始まる会話じゃなくて、『課題』解決に向けた建設的な議論が必要ですよ」
瀬戸は口元に笑みを溜めて話し続ける。
「ま、そんなことは最初から分かっていたんですけどね。雑賀のヤツに差をつけられて、ちょっとひねくれてた部分もあったというか」
「これまでのことは水に流して、まずは現状報告を聞きたいところだ」
「ここはまずいでしょう、さすがに」
瀬戸は、さっきから三人には目もくれず飯をかきこんでいる深丸をちらりと見やった。その目つきがいちいち気取っていて、深丸の癇に障る。
「なんすか? 邪魔なら俺、消えましょうか?」
深丸の発言に、藤枝はゆっくりと首を振った。
「僕は、君と話したいと思っていたんだよ、御宿深丸くん。君の自己紹介シートを読んで、君の人となりについて興味を持っていたんだ」
「俺の人となり?」
「とても印象的な自己紹介だったからね。ほかの誰とも違う、個性を感じたよ」
「そーっすかね。俺なんてどこにでもいる普通のヤツですし、普通のことしか書いてねーと思うんすけど」
「そうなのか。意外だね」
藤枝は深丸を正面から見据えた。
「君……というか君たち生徒のことを、僕は何も知ることができない。君たちのアバターを知ることができるだけだ。言ってしまえば、アバターは小説や映画と同じ、創作物だ。君たち自身のようであって、決してそうではない。そこが面白いところかもしれないって、ここ数日考え続けていた」
まだまだ話をしたい様子の藤枝を制し、急式は鋭い眼光を瀬戸に向けた。
「君の報告は、ログアウトしたのちに個人的に聞くことにしよう。サーバー内で『課題』についての会話を続けるのは、危険かもしれない」
瀬戸はうなずいた。急式は頷き返すと、瞬時に姿を消した。藤枝は慌てた様子だ。
「あ、ちょ、急式先生。話があるっておっしゃいませんでしたっけ?」
藤枝も消え、食事を再開しようとした深丸に、瀬戸が話しかけてくる。
「君、さ。五十嵐織音って子、知ってる?」
「あーっと、ああ、ついさっき話したけど」
「ふぅん」
瀬戸は腕組みしてつぶやきはじめた。
「彼女はなぜ例のことを……? 誰かが話したとしか……。一度、コンタクトを取るべきか……」
瀬戸はおもむろに立ちあがると、深丸に別れを告げ、ログアウトした。
「なんだよアイツよー、匂わしたいだけ匂わしといて先帰ってんじゃねーよ。んだよもー、どいつもこいつもべらべらくっちゃべって気持ちわりーよ」
深丸もとっととログアウト、キッチンにダッシュ、冷蔵庫の中からキムチ、チーズ、ソーセージをテイクアウト、それを食パンに挟んで電子レンジに突っ込んだ。
「ったくよー、今日出会った中でまともそうなの竹野内豊ふう男子だけじゃねーか。竹野内と同じクラスがいいな。それだけだな今の学園生活に対する希望としてはウン」
深丸の独り言に呼応するかのように、電子レンジがチン、と音を立てる。柔肌の食パンからほんのりと湯気の立つFOSにむしゃぶりつく。中身がひどく熱くむせる、しかしとろけるチーズのコク、肉厚ソーセージの歯ごたえ、そしてそれらにほどよい刺激を与えるキムチの辛味。ちなみにFOSとは深丸オリジナルサンドウィッチの略称。
「納豆だな。納豆の粘り気を足すと食感の深みが増すかもしんねぇ。キムチと相性いいし」
腹ごしらえを済ませると、ジーパンと真新しいTシャツに着替え、徒歩で本屋に向かった。
長く電子パッドに目を凝らしていたせいか、外の景色がなんだか妙によそよそしく、ちぐはぐに見えた。
目当ての一冊はすぐに見つかった。今日、発売したばかりの漫画だ。
勃起不全で夜の営みを満足に行えなくなった男性が、冷めつつあるパートナーの女性との関係を修復するためにジェンガの面白い遊び方を次々と考案し、夜な夜な遊びに興じるという筋立て。
隣のハンバーガーショップでフライドポテトを買った。漫画を読むお供に最適だと思った。
店の前に止めてある誰かの自転車が、不意に吹き付けた風で倒れた。右足を巻き込まれそうになったので、急いで飛びのいた。こってり日に焼けた若い男性が自転車をもとの位置に戻してやっていた。カップルらしい男女が、その自転車が倒れた一瞬だけ口をつぐんだが、またすぐに低い声で揉めはじめた。
帰り道、公園を突っ切って家に戻ろうとしたら、中学時代の同級生の女の子に呼び止められた。背負ったリュックにかかるくらいのロングヘア―だったはずなのに、ばっさりカットしてショートボブになっていた。
「お、高校デビュー?」
「そう言われるとはずいけど、ま、そーだね。何買ったのそれ?」
「漫画とポテチ」
「最高じゃん、ぐーたら生活三種の神器」
「神器、あと一つは?」
「ふかふかのソファーっしょ」
「つーかポテチじゃなくてフライドポテトだった」
深丸は袋から取り出して、食う? と問いかけた。いらない、ダイエット中だし。あ、そうなの。
「漫画は何の漫画?」
「勃起不全の男がジェンガを本気で極める漫画」
「何それ? 引くわー」
「引くなよ、けっこう面白いんだよ」
「いや、何か、さらっと言っちゃう神経に引いた」
「いや、ゆーて引いてねーっしょ」
「まぁ御宿だし。あーまた御宿がなんか言ってんなーみたいな」
「ってか、何してんのここで?」
「塾の自習室行ったんだけど満席でー。めんどくなって戻ってきた。高校始まんの明日からなんだけど、なんか授業のペース早いって聞いたからさー。真面目に予習でもしよっかなって思ったんだけど。心折れた」
「折れんの早すぎだろ。ポッキー並みの脆さじゃねーか」
「っさいなー。御宿はあれだよね、バーチャルなんたら学園だよね。いつから?」
「俺も明日から」
「高校生活スタートの前日に、そんな変な漫画読んでるあんたって……」
「いいんだよ、もうやるべきことはやったから」
「要領いいもんね、御宿は」
Tシャツの袖口から春の夕時の冷たい風が入ってきて、深丸は身を固くした。公園の隅に止めてあった自転車が倒れた。近くのベンチに腰かけていた主婦二人が黙り、慌てて一人が自転車を起こしに立ち上がった。
(第5話おわり)
第4話 スクリュードライバーってもはやカクテルの域を超えた言葉だよね
《こちらが食堂でございます!!》
「すげー……」
一旦ログアウトすることを告げた深丸が花原葉月に誘われ、通された場所は青葉志成学園の食堂であった。
一目見ただけで豪華絢爛だとわかる造り。
円卓から普通の長机までおおよそ400人は超える人数を収容できる大きさ。
床は絨毯が敷き詰められ踏み心地はいいものだ。
自動販売機のようなものからカウンターまで必要なものは大方揃っている印象を受ける。
そして、天井にはシャンデリアのようなものまでぶら下がっていた。
「たかだか数十人のバーチャル学園にここまでかけるかね?」
《『たかだか……』ですからよ。バーチャルには制限(リミット)がありませんので》
そう言って葉月はにこりと笑う。
「んで、今日は自由に食べていいんだっけか?」
《はい。本日はお試しというわけですから。普段は月額制かもしくはアクティブポイントを消費しないと使えませんが、まずは内情を知っていただかないと。この食堂を数多くの生徒に使っていただくよう広報するのも私の仕事でございますので》
「ほんと、あんた抜け目ないよ。トップセールスマンになれる」
《それは褒め言葉として頂戴致しますわ》
まずは部屋の中央部に向かって深丸は歩いていく。
「この自販機、飲み物だけじゃなく食べ物まで売ってんだな」
焼きそばや焼きおにぎり、スパゲティにラーメンといったものまで自動販売機で帰る様子だった。
《はい。やはり急いでいる人も中にはいると思いますのでこのように即席のものも作っております》
「なるほど。この200APってのが、さっき言ってたアクティブポイントってわけか」
《さすが、ご理解が早いですね》
「現金は使えないの?」
《このバーチャル学園でのキャッシュの使用は基本的にございません。例えば、食堂を例に用いますとあらかじめ月や年単位のフリーパス券をご購入するか、APを貯めるかのどちらかですよ》
「なーるほど。APってのがこの学園では鍵になるんだな」
《APが全てというわけではないですが、やはり大いに越したことはないでしょう》
そして、深丸は自動販売機を尻目にカウンターへと向かう。「んで、こっちが本丸ってわけか」
《はい。メニューの数と種類は多いと自負しておりますので、きっと深丸くんの好みのメニューもあると思いますよ!!》
「へぇ、この中からなんでも頼んでいいってわけ?」
葉月は満面の笑みで「はいっ」と答えた。
「つってもなー、これだけメニュー多いと何頼んでいいやら……」
宙に浮かぶホログラムディスプレイを指でなぞりながら深丸はメニュー選びに勤しむ。
「……おっ、これにすっか」
深丸は『麻婆麺』と書かれたメニューをタッチし、葉月に頼んだ。
《了解しました。》
葉月は何やら操作をし出すと、これまたヴァーチャルらしきウェイトレスに話しかける。
深丸は近くの席に座り再びメニューをじっくり見ていた。
「にしても、ほんと数と種類多いな。……ってなんだこれ? 『猫鍋ラーメン?』」
とあるメニューのところで指を止める深丸。
「それはコラボ商品さ」
深丸の質問に答えたのは葉月ではなく、別の人物だった。
「今、原宿をはじめとして巷で有名なラーメン屋”猫鍋”。そのメニューをこの学校でも再現しているのさ。知らないかい?」
鼈甲のメガネとオールバックに金色の髪の男の姿を見て深丸は変な髪の変な野郎だと思った。
「あいにく俺はインドア派なもんでね」
あけすけに言い放つ深丸。
「確かにバーチャル制のこの学校に来るものはそういう人が多いけど、世の中を知ることは大事だよ。僕たちが生きるのは結局リアルな世界なのだから」
金髪の男は髪をさらっと後ろに流し言う。
「ええっと……」
深丸が困惑していると、
「ああ、すまない。僕の名前は瀬戸晴信だ。訳あって君たちより早くこの学園にいるけど、実質君たちと同期だ。タメ語でいいよ」
と、深丸に握手を求める。
「御宿深丸。よろしく」
深丸は握手に答えたが、内心、「こいつとはあんまり深く関わらないようにしよう」と決意していた。
(あからさまに俺、主人公やっています感が出てるわ。ロードオブメジャーとか聞いてそうだわ。まぁ、俺の人生には登場しないでいい人物だ)
そんなことを深丸が思っていると注文した麻婆麺を持って葉月が現れる。
《深丸くんお待たせしました……って、あれ? 晴信くん?》
葉月も瀬戸の様子に気づいたようだった。
「やぁ、葉月さん。今日もとりもなおさずビューティーだね」
《そんなことはどうでもいいです。ところで晴信くんは今、課題中じゃなかったですか?》
瀬戸は首を横にブルブル振り、
「あんなことやっていられるわけないじゃないですか。せっかく、こうして新入生もたくさん集まってきているのだし」
「やっていられるわけないことないだろ」
これまた違う男の声がする。
「やべっ!」
急いで逃げようとする瀬戸の服をその男は掴み取る。
「お前、いい加減にしろよ。毎度毎度必修科目サボりやがって」
「勘弁してよ。天気もいいんだし。今日くらい見過ごしてくれ〜」
「それも毎度の言い訳だな」
二人のやりとりを見ながら、深丸はやれやれと呆れていた。
早くご飯を食べて近所の新宿御苑を歩きたい。
そんなことを思い二人をよそ目に深丸が食べ始めた時だった。
《ほぅら言ったじゃない晴信くん。じゃあ、よろしく頼みます。藤枝道慈先生》
第3話 アバター作り!
「青葉志成バーチャル学園 藤枝……道慈?」
「だれー? にいちゃんのしってるひと?」
勝手に触ろうとする幸太郎からひょい、と電子パッドを取り上げると、深丸は幸太郎を寝室に追いやった。
「知らない人だ、知らない人。俺くらいになるとよその秘密結社からの勧誘が引くほど来るんだ。じゃーおやすみな」
深丸は自分のベッドに横になると、電子パッドの電源を切ってため息をついた。
「先生からの連絡なんて、ろくなことがあったためしがねーや。めんどくせ、明日でいっか」
そうやって後回しにして、ろくなことがあったためしがねーのを都合よく忘れている深丸であった。
さて、翌朝。
姉と弟がそれぞれ高校と保育園に向かったのち、一人家に残った深丸は藤枝からのメッセージを開封して拍子抜けした。
「自分のアバターを作れ、だとぉ?」
言われてみれば、一週間ほどまえに郵送されてきた入学ガイダンスなる配布物に、いろいろと書いてあった気がする。
青葉志成バーチャル学園では、自分は家にいながら、自分の「アバター」が授業に参加する。そのほか、教員や学生たちとのコミュニケーションを図る際の「表の顔」としての役割を果たすのだ。
深丸がいつまで経ってもアバターを作らないので、担任教員から督促が来た、というわけだ。
「んで、アバターができたらVCR(バーチャルチャットルーム)で挨拶のメッセージを同級生に送ってみよう、だってさ。……だってさ、って誰に向かって言ってんだ俺」
ブツブツ独り言をこぼしていないとやりきれない面倒くささが今、深丸の心にのしかかっていた。
しかし、アバターなしでは今後の学生生活を送れないに等しい。気持ちを切り替えて、青葉志成バーチャル学園のホームページからIDとパスワードを入力。「メインルーム」というタグをクリックした。
突如、画面の真ん中に”Welcome!”という文字が飛び出してはじけたかと思うと、軽快なBGMとともにCGの女性が現れて、深丸に手を振ってきた。
《はじめまして! 私の名前は花原葉月(はなはら・はづき)! あなたの新入生生活をサポートするバーチャルチューターです! 私は普段ここ、『メインルーム』にいます! 困ったことがあったら何でも私に聞いて聞いて!》
「うぉっ!? びっくりした……」
深丸は、スーツ姿で小脇に教科書のようなものを抱えている花原葉月をじっと見た。
「教科書のイラスト然り、最近のこーゆーのはエライ可愛いなぁ。こんな可愛いチューターさんにあれやこれや教えてもらえんの? そらもう困ったことっつったらあなたのせいで股間が元気になっちゃって……なんてな」
《こらこら深丸くん! 出会って数秒の女性に下ネタは失礼でしょ? 言っておきますけど、私はあなたの学生生活や勉強以外のことはサポートしませんよ!》
「えええ!? こっちの会話筒抜け?」
《深丸くんの質問や相談にリアルタイムかつ正確に回答できるよう、私には高度な音声認識システムが搭載されています! ちなみに、深丸くんとの会話履歴は保存されます! 会話を重ねることによって深丸くんの性格や思考パターンを学習し、より精度の高い会話を楽しめるようになるはずです!》
「ったく、このAIにいったい金かけてんだよ……」
《お金の話ですか? お金の話は私も大好きです! でも今は目の前の学生生活に集中しましょうね!》
「わかってるよ、いちいち反応しなくていいから。えーっと、俺まだ自分のアバターを作ってないんだけど、どうやって作るんだ?」
《それでは、この『アバタールーム』をタップして入ってみてください!》
言われるとおりにすると、突如パンツ一丁の男性CGが画面中央に表示される。
《これがアバターの初期モデルです! 自由に身体のパーツや衣装をカスタマイズして、あなただけのアバターを作ってみましょう!》
まるでオンラインゲームのようなノリだな。深丸は感心と呆れの交じったため息をついた。
《そうそう、深丸くんには注意しておかないとですね! あくまで学生生活を送るためのアバターということを忘れずに! 公序良俗に反するような恰好はできないように設計されていますからね!》
「わかってるって! くそっ、完全にエロガキ扱いじゃん俺……」
深丸はひとしきり、衣装ケースや体のパーツをクリックしてみた。
「へぇー、案外自由度高いんだな。髪の色はなんでもありだし、衣装も普通の私服以外に、コスプレチックなのがいっぱいある。ん? このロックがかかってる服は?」
《それは、学園生活で貯められる『アクティブマイル』というポイントを消費することで、アンロックできるレアコスチュームです! 深丸くんのアクティブマイルは現在ゼロですね! アクティブマイルについての説明は、またいずれしますね!》
「はは、ますますゲームじみてきたな」
《体のパーツは一度作成すると変更不可となりますが、衣装はいつでも変えられるので、気軽に選んでくださいね!》
「こりゃ悩むねぇ……」
アニメのキャラクターのように、人並外れたイケメンや奇をてらった格好に扮するという選択肢もある。が、素直に自分の容姿に似せて作成してみることにした。
いくら自分に似せたアバターを作ろうとも、そしてアバターは自分の分身としての役割を持っているとしても、それはどこまでいっても「自分ではない誰か」だ。そうなのだが、せめて「自分だと思える誰か」にとどめておきたかった。
面倒くさがりのくせに妙な凝り性を発揮した深丸は、一時間半もかけて微調整に微調整を重ね、自分のアバターを作り上げた。
「うっし、できた! 予想以上に俺に似すぎて気持ち悪いな。ほっぺに傷跡でもつけとくか。」
最後にアバターの左頬に小さな傷跡を付け足し、完成とした。
「ふー、つっかれたー」
《まだ終わりではありませんよ、深丸くん! 早速、いま作ったアバターで同級生に挨拶をしに行きましょう! 『アバタールーム』を出て『VCR(バーチャルチャットルーム)』に行きますよ!》
深丸は再び言われるがままに電子パッドを操作。花原が話しかけてくる。
《現在のアクティブユーザーは二〇人ってとこでしょうか! さぁ、自己紹介ですよ! 会話設定は今、『全体発信』になっていますから、深丸くんの発言は全アバターに送信されます! そうそう、あくまでここは共に勉学や部活動に励む少年少女の集いです! くれぐれも下ネタを投下するようなことだけはしないでくださいね! 私にはVCRに入る権限がないので、メインルームでお留守番です! それじゃあいってらっしゃい!》
「どんだけ俺のこと偏見に満ちた目で見てんだよ? 割と真面目にやってんじゃん俺。どうやったら評価変わるんだよ」
深丸はぶつくさ文句をたれながら、VCRの「入場」タブをタップ。広々とした部屋に入ると、たくさんのアバターたちがあちらこちらに輪を作り、語り合っていた。
深丸はとりあえず、《初めまして、御宿深丸です。よろしくお願いします》と文字を入力した。
すぐに目に見える反応があった。近くの輪を囲んでいた二人が、深丸のアバターに駆け寄ってきたのだ。
「うぉぉ、なんか眼鏡委員長っぽい女子来た! あともう一人男子が……なんか竹野内豊っぽい! 竹野内豊っぽいダンディズムを放ってるよ! 高校生には到底見えねーけど!」
眼鏡委員長っぽい女子アバターが口を開いた。
《こんにちは、御宿くん! 私は五十嵐織音(いがらし・おりね)。今日から私たち友達だねっ! 御宿くんはフェイスブックやってる? やってたらあとで友達申請してもいいかな?》
会話の展開が早いな。フェイスブックは、アカウントは作ったもののほとんど利用していないし、苦手意識のあるツールではあった。しかし、ここで相手の誘いを無下に断るのも気が引ける。
《一応やってます。申請してくれたら、承認しときますよ》
《ありがとう! すごいよ御宿くん、ちょうど私の二千人目の友達だよ! そうだ、いまあっちで運動部の先輩たちが簡単な部活説明会やってくれてるんだ。このルームって本来一年生用なんだけど、事前に先輩とコンタクト取りたいって私が藤枝先生に申請したら、オーケーしてくれたんだ。どう? 御宿くんも聞いてみない?》
怒涛の情報量に深丸がたじろいでいると、隣の竹野内豊風男子が助け舟を出してくれた。
《そんなに追い詰めるような真似をしちゃ迷惑だろ、織音。君には君の、彼には彼のペースがある。相手に提案を投げかけるときは、相手が断りやすい雰囲気を作ることも大事なんじゃないかな》
豊氏、なんというイケメン。深丸の心情を掬い取るかのようなフォローが完璧だ。
深丸は運動部には興味がなかったので、丁重に断りのメッセージを送信した。すぐに五十嵐からの返信が届く。
《そっかー、話だけでも聞いてくれてありがと! また何かあったら誘うね!》
深丸は暇を告げて逃げるようにバーチャルチャットルームを後にした。
再び、花原葉月が画面中央に現れる。
《お疲れ様です! ひとまず、入学前に行う最低限のことは達成できたようですね!》
「ああ」
深丸は時計をちらりと見た。すでに、昼の二時を回っている。今更ながら腹の虫が鳴きだした。
「だいたい要領はつかめたよ」
(第3話おわり)
第2話 メンテナンスに入りたい
「やりたいこと……か」
深丸は自分のベッド仰向けになり、天井をぼんやり見つめている。
「……やりたいことって言われてもなぁ」
15歳の深丸は思う。
俺には将来の夢だとか、志ってものがない、と。
今の生活で十分満足できているし、これ以上の幸せってものがあるわけないと頭で理解している。
この家での生活がそのまま続くことこそが俺の夢かな、と深丸は自嘲する。
事実、彼が巷で話題のバーチャルハイスクールに入学したのも家にいながら受講できることが大きな理由であった。
そんなことを言うと姉の十和莉に「あんたじじくさすぎるのよ」と罵られるのがオチだが、深丸自身はそんな浮世離れした自分の性格を気に入っている。
周りより大人だという優越感がそのまま彼の自尊心に直結していた。
もちろん昔は人並みの夢ってやつを持っていた。
「ヒーローになりたい!」
と目を輝かせて、戦隊モノやヒーローごっこをしていた時期もあったが、あれは大人が作り上げた幻想でどこにもそんなヒーローがいないことがわかると、彼は幻滅した。
ーー所詮人生なんてそんなもんか。
幼いながら深丸は悟りきった。
「それ以来かな。俺は。別にやりたいこともねーし。強いていうならタイムトラベルくらいか?」
独り言を呟く深丸。
タイムトラベルで時代の転換期を見てみたい。
そういった歴史の授業で学んできたことが嘘偽りないのか自分の目で確かめることは彼自身やってみたいとは思っていた。
「タイムトラベル……俺の頭じゃ無理だわ」
そうふてくされてゴロンと姿勢を変えた時に、トントンと部屋の戸がノックされ、「どうぞ」と深丸は言った。
「兄ちゃんふてくされてるんじゃないだろうね」
声の主は幸太郎であった。
「んだよ、ってかなんでわかったんだよ」
幸太郎は自慢気にふふっと笑う。
「だってねー。兄ちゃんが黙って自分の部屋に籠るのはそういう時だもん。フカマルからコモルーになるんだよね」
「いつの時代の育成ゲームの話をしているんだ。お前は」
幸太郎は腰に手を当てて再び自慢気にする。
そんな弟の様子に深丸は、
「もうお前は立派な調査隊員だよ」
「そう!? やった! ヘヘッ」
歯をむき出しにして喜ぶ幸太郎を見てやはり自分がバーチャールハイスクールに入ったことは間違いではないと思った。
その時だった。
テンロンテンロウ♪
深丸のお気に入りの電子パッドにメッセージの到着音が鳴る。
「あれれ、誰から?」
幸太郎が首を傾げる。
「本当にな。誰だろうか? こんな夜遅い時間に。チェーンメールとか出会い系サイトとかの迷惑メールか?」
「出会い系?」と幸太郎がはてなマークを浮かべているのをよそに深丸はメッセージ内容を確認する。
「これは……」
幸太郎も見せて見せてーとパッドを覗き込んでくる。
「青葉志成バーチャル学園 藤枝……道慈(どうじ)?」
春から入学することになっている学校の先生らしき人物からのメッセージであった。
第1話 御宿深丸とその周辺
コン。落としたペットボトルのフタが床のタイルをはねる音に、落とした藤枝道慈(ふじえだ・どうじ)自身がビクッと身体を震わせた。職場の同僚たちが帰ったあと、ずっとPC端末のデータファイルとにらめっこしていた。
藤枝は立ち上がると転がるフタを追いかけた。フタはマリンブルーのパンプスに当たって止まり、藤枝は驚いて顔を上げた。
「ああ、えーっと……。橋本先生。まだいらっしゃったんですか」
「橋爪です。橋爪楓里(はしづめ・ふうり)」
橋爪は気にする風でもなく訂正しつつ、しゃがんでペットボトルのフタを取ると、藤枝に手渡した。
「はい、どうぞ。藤枝道慈先生」
「どうも、ありがとうございます」
鼻をくすぐる控えめな香水と、高校生みたいなショートボブの髪型が藤枝の印象に残った。ぼけっと橋爪の顔を見ていた藤枝は、慌てて二の句を継いだ。
「すみません。人の名前を覚えるのは、昔から不得意で。自分じゃ教師失格かなって思ってるんですけど」
このセリフ、今まで何度口にしたことだろう。ちょっとしたミスを、ちょっとした軽口、それも自らを卑下するような軽口でやり過ごしてしまうのにうってつけのこのセリフ。
こういうくだらないところばかり上手になってしまった。教師になった今も、自分の本質はほとんど変わっていない。変わったのは立場と、社会人として要求される最低限のコミュニケーション能力が身についたくらいのことだ。
「おととい着任されたばかりなんだから、気にしなくていいですよ」
橋爪は目ざとく藤枝のPCの中身を見ると、付け足した。
「それに、こんな遅くまで自分が受け持つ生徒たちの基本情報を熟読してる時点で、教師大合格です」
「ああ……。これは単純に、見てないと不安で、っていうだけで。それに、諸々の雑務が終わってさっき読みだしたばかりですから」
藤枝は苦笑した。
「まさか転任先が全日制でも、通信制でもない、バーチャルハイスクールだなんて、予想外でしたからね」
「まったく同じ気持ちです。まぁ、私やほかの多くの先生がこの学校の本元・青葉志成大学附属高校からの出向者ですから……。藤枝先生のような外部からいらした方に比べたら、まだ楽なのかもしれないですけど」
明後日は入学式。青葉志成大学附属高等学校の分校として昨年開校したばかりの青葉志成バーチャル学園の二期生が新たに門戸を叩く……と言いたいところだが、入学式もその後の授業もほとんどすべてがオンライン上の仮想空間で行われるというシステムである。
「今までとは勝手が違いすぎて、なんだかねぇ……。そういや、橋爪先生、何で戻ってらっしゃったんでしたっけ?」
藤枝の問いに、橋爪はあっと声を漏らした。
「そうだ、スマートフォン忘れて取りに来たんだった」
橋爪は藤枝の斜向かいの席に小走りで移動しながら、尋ねた。
「なんか面白そうな生徒はいました? 藤枝先生が読んでたの、生徒が事前に提出した自己紹介シートでしょ?」
「そうですそうです。うーん、でもやっぱりみんな個性的ですよね。芸能活動をメインでやりたい女の子、ワケあって全日制の高校中退しちゃった男の子。中には起業家もいますね。この子は中三で既に三つものオンラインショップを立ち上げてて、フェイスブックの友達の数が二〇〇〇人ですって」
「はは、まー普通の高校には興味なさそうなタイプですね」
「ん? こいつはなんだ?」
藤枝の目が一人の生徒のデータに吸い寄せられる。
- 氏名:御宿深丸(みしゅく・ふかまる)
- 年齢:15
- 住所:東京都世田谷区×丁目××××××
- 家族構成:父、母、姉、弟、猫一匹
- 趣味:特になし。強いて言うなら音楽鑑賞、猫の毛並みの手入れ
- 将来の夢:特になし。強いて言うなら投資家
- 気になる部活動:特になし。強いて言うなら文化部のどれか
- 希望するニックネーム:特になし。強いて言うならミッシー、ふかまる
- クラスメイトに一言:まだ会ってもない連中に対して言うことは特にない
藤枝と、いつの間にか端末をのぞき込んでいた橋爪は同時に首を傾げた。
「こいつ……。やる気がないのかふざけてるのか、それともウケを狙ってるのか……。なんなんだ?」
「ごちそうさーん。あなたも私もごちそうさんハイハイと。ねーちゃん、冷凍庫ん中アイスある?」
「あのさ深丸、もう夜遅いんだからくだらないこと言ってないでとっとと風呂入ってくんない?」
「くだらないぃ? 冷凍庫におけるアイスの重要性をわかってらっしゃるんですかね、お姉さまは。アイスのない冷凍庫なんてのはね、さながらモデルが歩いていないランウェイのごとき寂しさですよ。もとい、無用の長物ですよ」
「あ、なぜか梅干しが一個だけ入ってんだけど」
「はぁぁ? なんでランウェイに干からびたババアが紛れ込んでんだよ? ババア、お前の輝かしき時代はとっくのとうに終わったんだよ、即刻出ていきなさいよ」
「幸太郎の仕業ね、あんたまた悪戯したでしょ!?」
御宿十和莉(みしゅく・とわり)はキッチンから顔を出し、食卓でテレビに見入っている幼い弟・幸太郎を睨んだ。
「こーたろー! ねーちゃんの話聞いてんの!?」
「ぼくやってないよ」
幸太郎は丸い声で答えた。十和莉は食い下がる。
「こんなことすんの、うちであんただけでしょーが!」
「ぼくやってないよ」
「ちょっと幸太郎――」
「んまぁまぁ、夜も遅いことだし。な? 幸太郎、一緒にひとっ風呂浴びてこようぜ」
御宿深丸は幸太郎をむんずと抱きかかえると衣服を引っぺがし、尻を叩いてトイレに向かわせた。
「ほら、小便してこい小便」
「ぼくテレビ見たいよ」
「夜にテレビ見たらねーちゃんに殺されるぞ」
「殺される?」
「ああ、殺される」
「殺されるとどうなるの?」
「一生テレビ見れなくなる」
「やだ!」
全裸の幸太郎はトイレに向かってバタバタと駆け出した。
キッチンから十和莉のじっとりした視線を感じ、深丸は振り返った。
「何か問題でも、お姉さま?」
「まーたあんたは幸太郎を甘やかす」
「甘やかす? 梅干しの悪戯を追及しなかったこと?」
十和莉は皿を拭きながら頷いた。深丸は、それは違うさ、と切り返した。
「あそこで幸太郎を問い詰めてたら、幸太郎は機嫌を損ねて風呂入るどころじゃなくなってただろう。そうすると、今年の春より大学受験生におなりあそばれた麗しきお姉さまの貴重なお時間を奪う事態になりかねない。時間の有効活用ってポイントじゃ、さっきの俺の行動は最適解だったはずさ」
「えらそーに、何が最適解よ。さっきので幸太郎が調子に乗って、悪戯をエスカレートさせたらどーすんの?」
十和莉は深丸を信用していない態度丸出しで反論した。深丸は涼しい顔でやり返す。
「ねーちゃん、あれは彼の中の一過性の『流行り』だ。あんなのすぐに面白くなくなる時期がくるさ。些末な物事はたいてい時間が解決してくれる。俺たち現代人ってのは妙に時間に余裕がないだろ? 大切なこととそうでもないことを見極め、大切なことに時間をかけるようセルフコントロールしなきゃ」
「薄っぺらい自己啓発書みたいな論法でごまかそうとしないで。ってか、こうしてあんたとしゃべってる時間が一番ムダだから。早くお風呂入ってきて。あと、使い終わったら風呂椅子、ちゃんとお湯で洗い流してよね」
「へいへい。やっぱりねーちゃん、彼氏できてから変わったよなー、そーゆーとこ」
「はぁ? 適当なこと言わないで。あんたも明後日、入学式でしょ。準備とかちゃんとしたら?」
「準備ってもなぁ……」
そのとき、トイレから走り出てきた幸太郎が二人の間を駆け抜けた。
「にいちゃん! 先入ってるから、お風呂の中で戦車ごっこしようね!」
「おう。すぐ行くぞー」
「……長風呂は厳禁よ」
「わかってるよ、そんなおっかねー顔しないでよ」
深丸はするりと全裸になると、アンパンマンのテーマソングを朗々と歌う幸太郎の身体をごしごし洗ってやった。乳歯が二本抜け、額に瘤、右肘に青痣。なんとも見てくれの悪い身体だが、肌は健康的な明るい色をしている。
「元気に育ちやがれこの野郎」
「え? にいちゃんなんかいった?」
「いや、俺、今年からたぶん、家にいること多くなるから。前よりたくさん遊べるかもな」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあバビングたんけんたい入る?」
「バビ……え? なにそれ?」
「バビングたんけんたいは、リョウくんたちとケッセイしたヒミツソシキで、町のヒミツをしらべるんだ」
「あー」
深丸は自分が幸太郎や、幸太郎が通う幼稚園の子供たちに交じって怪しいおっさんをつけまわしたり、裏路地を無駄にダッシュしたりしている風景を想像してげんなりした。
「俺くらいにもなると町のヒミツなんて知り尽くしてるからなぁ、町の調査は幸太郎たちに任せるよ」
「じゃあ、にいちゃんはなにがしたいの?」
「なにがしたい?」
深丸はオウム返しにつぶやいた。
「俺は……何がしたい……?」
(第1話おわり)